「私を殺してほしい…」いつかこの経験が役にたつ…老人性鬱の祖母を介護した話
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こんにちは、卯月です。
最近、娘のことを書こうとしてもまとまらず、記事を掲載できていないのですが…
いろいろと考えているうちに、意地悪でプライドが高くて、でも優しくて大好きだった祖母の介護をしていた時のことを思い出しました。
今回は、娘のことを書く前に、卯月が経験した「介護」というものについて、まずは書いてみたいと思います。
子育てと直接関係はないですし少し長くなりますが、介護、子育てをしている方に読んでいただきたいお話です。
- 老人性鬱病だった祖母
- 時々手を抜きつつ、介護に真剣に向き合った日々
- 何度も死のうとした祖母
- 介護に疲れ…自己嫌悪に陥り、激太り
- 祖母の最期と思い出
- 子育てのいま思うこと
老人性鬱病だった祖母
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卯月は結婚する前、祖母の介護をしていました。
子育てより先に介護をする人の割合はそれほど多くないと思います。
また、自分のおばあちゃんから「今すぐ首を絞めて私を殺してくれ」と懇願された経験のある人も、あまりいないんじゃないかと思います。
私の両親は父も母も、それぞれ百貨店に店を持っていて、祖母を引き取り介護することになった時、フリーターだった私がメインで介護をすることになりました。
祖母は、老人性鬱病でした。
人生で5度の自殺未遂をおこしています。
3度目の自殺を試みた後に、引き取ることになりました。
そのころ祖母は一人暮らしでしたが、近所に私の叔母が住んでいました。
自殺の方法は、睡眠薬です。
思えば、少し前から様子がおかしくなっていました。
鬱というのは、朝が起きれなかったり、日中も寝込んでしまったりするのです。
しかし近所に住んでいた一人暮らしの叔母が食事を作りに行った際に、毎日寝て文句ばかり言う祖母と口喧嘩になり「そんなに寝てたいんだったら、もうずっと寝てな!」と言って帰宅したところ、その晩、150錠の睡眠薬を飲んでしまいました。
翌日も食事を作りに行った叔母に発見されて病院に運ばれ、胃洗浄をし、数日目を覚ましませんでした。
また目覚めてからも幻覚を見たりして、しばらくはベッドの上で寝たきりでした。
結果、急激に足腰が衰え、歩けなくなったのです。
当然、叔母は自分を責め落ち込みました。
1人暮らしの落ち込んだ叔母に介護は無理だろうと判断し、我が家で引き取ることになったのです。
時々手を抜きつつ、介護に真剣に向き合った日々
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卯月は、ときたま介護の手を抜いていました。
正確には、手を抜かざるを得ない…といった感じでした。祖母の要求に全てこたえていたら、心身がもたないと思ったからです。
祖母を病院へ連れていった際に、心療内科の先生から「鬱の方の介護をされる家族は、引っ張られて鬱になることが多いです。もしそうなったら、うちで受診してくださいね」と言われました。
そして、テレビで介護疲れによる事件のニュースが流れるたびに、他人事ではないな…と思っていました。
祖母は毎朝、母が車で仕事に出ると「私の世話が嫌で家出しちゃった」と言いました。そのたびに私は「大丈夫だよ、お母さんは仕事に行ったんだよ。終わったら帰ってくるから」と言いました、すると祖母は毎回「仕事?帰ってくる?…あぁ、そう…」といいました。
夜は母と交代で祖母の部屋で寝て、トイレの時は抱えてトイレに連れて行き、オムツを脱がせて便座に座らせる。終わったらオムツを穿かせ、部屋に戻ってベッドに横にして布団をかける…
食事をたべさせる、薬を飲ませる、湿布を貼る、クリームをぬる…
通院は母と二人で行き、車から車椅子へ乗せたり、薬局で薬を待つ間にどちらかが祖母をみている…といった具合で、毎回3時間近くかかりました。
また、日中は何度も呼ばれて、2階の自室から1階の祖母の部屋に行くと「まぶしいからカーテンしめて」「うるさいからテレビ消して」と言われたり…テレビなんて、リモコンが枕元にあるのに…
祖母が私を呼ぶ時、壁をトントン叩きました。すると2階の部屋までトントン聞えるのです。いつしか私は一日に何度も響く、そのトントンが嫌いになっていました。
私も限界に近かったのかも知れません。
祖母はよく、プロテインやサプリメントを買ってきてほしいとかも言いました。
そういえば、テレビで霊能力者をみて「私の体がおかしいのは何か憑りついているからだ。今すぐテレビ局に電話して、あの霊能力者に来てくれるように言ってくれ」といったこともありました。
食べやすいようにと小さく切ったりトロミをつけて、栄養のある介護食を必死に作っても、手もつけず、「松茸ごはんが食べたいな~」と言われた時はその場でトレーごとぶちまけようかと思いました。…そんなことをして、片づけるのも自分なので、キッチンのシンクに静かにぶちまけたりしました。
そして祖母は、毎日カーテンを閉め、寝ているだけの日々でした。
何度も死のうとした祖母
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数日預かってくれる施設へ送って行った日、母とたまにはゆっくり買い物でもしようか…と話していたら、一時間もしてないのに迎えにきてほしいと連絡があって、別の日にはベッドに包帯をくくりつけ、自分で首を絞めようとして、結局その施設からは「もうあずかれません」と言わました。
祖母はデイサービスへも行きたくないと言い、自分達でみるしかありませんでした。
老人性の鬱でしたが、知恵はあったんです。
「食べ終わったら飲むからお水と一緒に置いておいて」と言われ、食事のトレーに薬を置いていましたが、見ていない時をみはからって袋を切って中身を出し、袋だけゴミ箱に捨てて薬をこっそり隠していたんです。祖母は、ある日それをまとめて飲みました。
ゴミ箱に薬の袋が捨ててあって、油断しました。
鬱の人は、薬をの飲む瞬間を見ていないといけないということです。
けれどそのころの祖母は自分で食べれるようになりちょっと元気が出てきていて、私は、最近ご飯も少し食べるようになってきたし…と、嬉しく思っていたころで、すごくショックをうけたことを覚えています。
また、一からやり直しでした。
幸い薬の量は少なく数日寝ただけでしたが、その後、私は祖母からだいぶ責められました。
「どうしていつも死なせてくれないのか!!」
「なぜ助けたのか!!」
「今すぐ首を絞めて私を殺してくれ!!」
説得しても、説得しても、何度も毎日毎日、何度も何度も殺してくれと叫ぶ祖母に「もし私がおばあちゃんを殺して牢屋に入ることになっても?」と聞いたら「それでもいい、殺して」と言われました。
この時ほど悲しかったことはありません。
孫に罪を犯させても死にたい気持ちとは、どれほどのものだろう…本当にあのまま死んでいたほうが、おばあちゃんは幸せだったのではないだろうか…今すぐ目の前の老婆の細い首を絞めれば、この人は楽になれるんだろうか…
私も楽になれるんだろうか…
私は、頭には血が昇っているのに、寒い気がして、全身が震えていました。
でもその時、頭をよぎったのはテレビのニュースで流れていた事件のことでした。
あの事件を起こしてしまった人たちは、きっと今の私のように、ふっとこんなことを思って戻れなくなった人達なのだ、と思いました。
そして、
私は違う…そんなことをしても家族が悲しむだけで、誰も楽になれない。この人を悲しい気持ちのまま死なせることはしたくない。この人の言うことなんか聞くもんか!
…と、必死で深呼吸をし、数分で現実に戻れたのです。
でも、その数分…私は、殺してしまいたいほど憎いという感情を初めて体験し、判断がおかしくなりそうでした。
介護に疲れ…自己嫌悪に陥り、激太り
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その頃私は声優の養成所へ週に一度通っており、数日後に養成所の先生にこの出来事を話しました。
先生は、声優業界では有名な方でした。
「先生、私…その時に、"あぁ、これが殺意っていうのか、この感情と感覚は忘れないようにして演技に活かさないと。転んでもただでは起き上がらないように…"って思ってしまったんです。こんな時にこんなこと考えるなんて…私は最低です。数分の間に、いろんな感情が沸き上がってきて、私は自分が怖かったです。」
あの時、先生がなんて言ってくれたか、実ははっきり思い出せません。でもたしか「それが人間の正直な感情だから否定しなくていい」というようなことをおっしゃってくださっていたと思います。
そして先生は、私が泣き止むまでレッスンを数分遅らせてくれました。
その時同期生は教室にいたので、先生と私が別室で何を話しているのか、レッスンが遅れている理由が何なのか、分からなかったようです。
しかしレッスンを開始する時に先生が「彼女は今大変な話をしてくれました。声優というのは、どんな時でも、悲しい感情でも、糧にしなくてはいけません」というようなことを、みんなに言ったので、教室のみんなは私に何か特別なことが起きて、それを演技に活かすという話をしたのだと知って、レッスン時間が遅くなったことも静かに納得していたようでした。
私は祖母を引き取った当初、声優の勉強にもなるかとイベントMCやイベントコンパニオンをしていたのですが、介護を始めてからストレスで過食になり、半年で8キロ太りました。
「いつでもまた戻っておいで」と、所属していた事務所のマネージャーからは言ってもらえていましたが、8キロも太ってはコスチュームも着ることもできず、また時間も精神的な余裕もなくなり、家事手伝い&介護…となりました。
祖母の最期と思い出
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殺してくれ、と言われてから2年後くらいでしょうか…祖母はようやく入所した施設のベッドで「中庭で鶏が卵を産んだんだよ」とか「さっきラーメンを食べたの」という、実際にない話をするようになり、そのうち、体中が痒いと血が出るほど掻きむしってしまうためベッドに拘束され、衰弱し、病院で息を引き取りました。
祖母は神経質でプライドが高かったですが、子供のころはとてもよく私の話を聞いてくれて、好きだったんです。
なんとかして元気になってもらいたかった。
だから私は、はじめのうち、ベッドの脇に椅子を持っていって、祖母と話をするようにしていました。
お化粧をしてあげて、よく外出にも誘いました。
公園に、桜を見にも行きました。
車椅子でディズニーランドにも連れて行きました。
温泉にも連れて行きました。
どれも楽しかったし、とてもいい思い出になっています。
けれど、祖母の状態が悪くなったり暴言を吐かれた時などは辛く、祖母が呼んでいても聞えないふりをしたりしました。そして、そんな自分が嫌いになりました。
子育てのいま思うこと
今、娘のことを考える時、祖母を介護した時のことや亡くなった時のことを思い出すんです。
祖母が亡くなった時、あんなに憎らしいと思った瞬間もあったのに、なぜもっと優しくしてあげられなかったのか…とか、もっと方法があったんじゃないか…とか…
苦しかった介護なのに、楽しかったことも思い出されて、たくさん泣きました。
葬儀の時、涙が止まらない私を見た従兄は、なぜそんなに泣くのか不思議がっていました。何年も離れて暮らしていた従兄は、涙は出てもハンカチが濡れるほどの感情は実感として湧いてこなかったようなのです。
その時に、従兄に別のもう一人の叔母が「一緒に暮らした人にしか分からないよ」とポツリと言ったのを覚えています。
それは、私にとって褒美でした。
頑張ったこと、亡くなる瞬間まで傍にいたこと…
他の従兄たちより長く一緒の時間を過ごし、従兄たちが経験することが出来ないものを私は経験したのだと思ったのです。
そして、「あなたは出来ることは全部やったよ」と言われた時、たしかにあの時の自分にはあれが精一杯だったと気づきました。
祖母を介護することは、いつかきっと役に立つ、だから頑張ろう!と祖母を引き取った時に思っていました。
子育てや主人の両親の介護…きっと、役に立つと…
子供が不登校だと言うと、もっと厳しくしたら行くようになるんじゃない?と言う人がいます。
私は怖いのです。
心に元気がなくなっている人には、元気をあたえなくてはいけない。
落ち込んで崖に立っているような人にかける言葉はあたたかい言葉でなくてはならない。…そう思うのです。
言葉はそっと手を握って引き寄せることもできるし、祖母が150錠の睡眠薬を飲んだように、その背中を押してしまうこともあるかも知れないのです。
状況を見極める判断力がほしいと、いつも思います。
そしてもし崖から動けないのなら、一緒にいてあげたいと思うのです。
久しぶりに、真面目な話を書きました。
いつか誰かに話したい、そんな風に思っていた話です。
今の私を作った話です。
この記事が、誰かの役に立つとは思えないけれど、いま介護や子育てで頑張っている人達に聞いてもらいたい話でした。